6日目

8:45 韓国コンド出発

9:36 4.3平和記念館到着
・1948年の4.3事件後2000年に建てられた
・盧武鉉は大統領で初めて4.3事件について謝罪した
・政権によって事件との向き合い方が異なる
11:00 平和記念館出発

11:25 失われた村

・石碑には四三事件の真相究明と名誉回復と書かれている
・石碑は2003年にたてられた
11:50 失われた村出発

13:55 済州空港発
15:19 金浦空港到着
15:43 空港鉄道乗車
16:00 공덕駅で5号線に乗り換え
16:19 乙支路4街到着
16:34 現代レジデンス到着

・4.3事件はまだ調査中である

・1948年以降4.3事件の真相は伏せられていたため平和記念館や石碑が建てられたのは比較的最近である

・当時密航で日本に渡った人も多く、済州島出身の在日朝鮮人が多い

坂本萌果 より:
2017年8月30日 1:08 AM (編集)
今日は済州4・3平和公園に行った。昨日いった世界遺産となっている観光地が4・3事件の虐殺の現場となっていると知って衝撃をうけた。また、7年7ヶ月にわたって事件は続いたと聞きそこまでの長い時間関係のない島民老若男女かまわず無差別に虐殺され恐怖にさらされていたということが恐ろしく感じた。また、実際に亡くなっている方の遺体や遺骨の写真をみて心が痛くなった。遺体や遺骨の写真をここまではっきり展示できるのは韓国だからなのかと思った。日本ではここまではっきりとは展示できない気がした。
2000年に政府が公式に真相究明をした本をだしたということは事件が起こってから50年以上公にできなかったということであり政府と事件とが密接に関係していることがわかった。

返信
河口光輝 より:
2017年8月30日 11:18 PM (編集)
四三平和公園で四三事件の石碑があった。しかし、そこには何も彫られていなかった。なぜなら、この事件をどのように名前をつけるか定まっていないからであった。
現在でも、四三事件のことをどのように扱うのかをこの公園ではじめてわかった。

返信
菅原理子 より:
2017年9月4日 9:20 AM (編集)
4.3平和記念館にいった。先日訪れた4.3事件の追悼脾には幼い子供から老人までの名前が刻まれているをみていたために、ここにこれたからここではさらにいろんな展示を見ることができた。7年7ヶ月に渡る老若男女問わない虐殺が繰り返され、罪のないチェジュ島市民がどんどん殺されてしまった。記念館に当時の過激な展示がたくさんあり衝撃を受けた。生々しい展示をあえて展示して決して忘れてはいけないことであるという認識を明らかにしているかなと思った。

返信
藪下祥子 より:
2017年9月14日 5:06 PM (編集)
4.3平和記念館には何も彫られていない白碑があり、それは4.3事件と呼ばれている済州の島民虐殺事件の正式な名がまだ決められていないからである。確かに4.3事件と名付けるには少し重みがなく感じる。この先も名前が決まってそこに名が刻まれることはない気がする。
経済的にソウルなどがある半島より貧しいと差別されてきた済州島では自分たちに同調しないものは殺していた。それに対して多文化主義と人権を強調する立場が存在したが、人権だけを掲げて対抗するのは弱かった。相手の思想とイデオロギーは考えず、韓国側がアメリカ側を表明してもらい、自分側であるかどうかで判断して、中に入るか入らないかが決まり、入らなかった人は殺される。敵・味方という概念ではなく自分たち側であるかどうかが決め手だった。しかし、自分たち側だと言っても、自分たちの側でないということを権力者が決めたら、真偽に関わらず殺してもいいということになる(=共謀罪)集落にいなければ殺されることがわかると集落に居辛くなり、洞窟などに逃げた。集落にいれば殺されずに済むのにもかかわらず逃げ出したくなるほど居辛い空気というと、よっぽどだったのだろう。
記念館内の展示は虐殺過程のアニメーションや、虐殺方法など残酷なものが多かったがそれも基本的に韓国側が誘導したものである。わたしたちはそこからなにを伝えたいのか、第三者の目線で見る必要がある。