8:30 金浦到着
9:05 チェックイン
11:05 チェジュ島到着
11:50 昼食、コギグクス
12:30 三姓穴
14:18 고구마저장고
14:37 飛行機格納庫
14:56 4・3事件の追悼碑
15:15 飛行場滑走路
15:48 地下要塞
16:40 人間魚雷
17:00 韓国コンドホテルチェックイン
17:30 海
18:30 夕食、オギョプサル
坂本萌果 より:
2017年8月28日 9:05 AM (編集)
톨하르방は済州の神様的存在で魔除けとしても考えられている。済州は1970年代の新婚旅行の人気スポットであり、톨사르방の鼻を触ると男の子が生まれるという迷信がある。わたしはこの話を聞いて男の子を欲しがるのは日本と一緒なのだなと思いました。
三姓穴ではアニメーションをみた。このアニメをみてより深く理解することができたと思う。済州が誕生した時にすでに婚礼の儀式があったことに驚きました。
ソウルにはバス専用レーンがあるが、済州では2017年8月26日からバス専用レーンができたが、それはもともと人口密度も低かったし車もいなかったのが増えて来たということであるレンタカーのナンバープレートは허であり、済州ではレンタカーを借りて運転して回るのが主流だ。道を見るとレンタカーが本当に多く、済州が観光地として人気なのだなと思いました。
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藪下祥子 より:
2017年8月29日 1:08 AM (編集)
済州島の発祥は穴から生まれた3人の神・三神人である。人のいなかった済州島で、3人は争うことなく狩猟や農業を発展させ、済州島を平和に保っていた。今でも済州島には「平和」のイメージが強い。馬の足跡がついた岩を見てみたかった。
済州島内でよく見かけるトルハルバンは魔除けや子宝祈願などのための済州島の守り神として大切にされてきた石像であり、組んでいる上は上になっている腕によってその意味は異なる。右腕を上にして組んでいるトルハルバンは文、左を腕にして組んでいるトルハルバンは武を表している。済州島内にあるトルハルバンの内95%は玄武岩で作られている。他にも、済州島内の道路や歩道の石畳にも玄武岩が使われており、雨が多い済州島で、降った雨を浸透させその下にためる役割を果たす。
旧日本軍の軍事施設の飛行機格納庫にら飛行機の骨組みとそれにつけられたリボンだけが置かれていたが、空気は重く感じた。家なども少なく畑が続く広大な場所に点々と設置された格納庫は、それがもう使われず、それを撤去すれば畑面積が増えるとしても、保存しておかなければいけないものであることを感じられた。
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河口光輝 より:
2017年8月29日 9:37 AM (編集)
三姓穴の入り口には、トルハルバンという石の石像が建てられていた。これは魔除けの意味を持つとされている。
ここには一対あり、左右の手の位置が違う諸説あるが、文と武を意味している。
済州島は雨が多いため家の柱の周りが石で覆われている。
済州島は人口が少ないため、道路整備がされていなかった。しかし、現在では、観光地となっているため、海外の観光客のための道路整備をするようになった。これにより、8月25日までバス専用道路がなかったのに、8月26日に急にバス専用道路になっていたということもある。
済州島は南よりも北の方が人口が多い。
新都市から離れれば離れるほど一軒家が見られるようになる。また、自然が多い。
済州島は沖縄とは違い、地上戦が行われていないため日本軍の軍事跡地が破壊されず残っている。
四三事件の名誉回復碑は2007年にたてられた。しかし、その事件が起こった1948年である。この期間はこの事件を公開することができなかった。
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菅原理子 より:
2017年8月30日 9:45 AM (編集)
チェジュ島発祥の地である三姓穴に行った。
そこの入り口にはトルハルバンという石像がいた。トルハルバンとはチェジュ島の守り神のような存在である。トルハルバンの由来はおじいさんと意味だそうだ。これの石像をみて沖縄の守り神であるシーサーが思い浮かんだ。チェジュ島は日本において沖縄のような存在と言われることがあるだけに似ている文化があると思った。また、済州島は玄武岩が有名で、トルハルバンや石畳のほとんどが玄武岩で作れているそうだ。玄武岩はボコボコあいてる小さな穴が特徴であり、雨が多い済州島はそこから雨を下に流すことができる。済州島の石像や石畳などの95パーセントが玄武岩からできていらと言われている。今回
済州島でいろいろな所に訪問したが、玄武岩で作られてるものをたくさん見ることができた。
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JINHYEON より:
2017年9月14日 7:29 PM (編集)
日本はアメリカとの太平洋戦争の時、米軍が日本の本土に侵入することを防ぐだめに済州道を陣地化した。日本は多くの済州道民を動員し、地下バンカーと飛行場、弾薬庫などを作った。しかし、日本はアメリカと全面戦争をせずに、敗戦を宣言した。その理由で、済州には植民地支配の時作られた様々な物などがそのまま残っている。また、1948年4月3日、米軍と韓国軍が済州の治安を管理し、左翼を剔抉する理由で、関係ない済州道民まで虐殺してしまった。しかし、4.3事件が終わった後、20年以上、誰もその事件について調べることもできず、独裁や軍部の監視を受けないとならなかった。
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笈川知代 より:
2017年9月17日 11:04 PM (編集)
戦闘機の格納庫跡を見て回ったがこれが展示物のように整備されたのは最近になってからとの説明を聞き、現時点では人気や建物も少ない場ではあるが今後より跡地として大々的に整備されこの地の形も変化していく可能性もあるのではと思った。43事件の追悼碑では、この地で起きた悲惨な事件に胸が痛くなったと共に、長い間圧力によって明らかにされなかったという事実に恐ろしさを感じた。